2021年08月25日

2021年9月号  その熱狂は消え、’感染に溢れる日本’だけが残った - 林川眞善

目 次

はじめに 「東京オリンピック2020」が残したメッセージ
第1章 ‘多様性’ 理念の東京五輪と、菅政治の実像  
第2章  コロナ後の経済社会とDiversity  
おわりに 女子サッカー「なでしこ」の抗議行動

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はじめに  「東京オリンピック2020」が残したメッセージ

パンデミック非常事態宣言下の東京、57年ぶりに開催された「東京オリンピック 2020」は8月8日、幕を下ろし、今、後続のパラリンピック(8/24-9/5)を待つ処です。
今次オリンピックで掲げられた理念は「多様性と調和」。そもそも「多様性」(ダイバーシテイ:Diversity )とは、国籍、性別、年齢、宗教など様々な違いがある人たちで成り立っている環境を意味する言葉ですが、とりわけ企業経営や人事の分野においては、多様な人材を積極的に活用していこうという考え方にあって、もともとアメリカで、女性や人種の差別を撤廃し、積極的に採用していく事を目指して広がったとされる考え方です。要は共生社会の活力をもって社会の進化を目指さんとするものです。
さて、そうした理念を戴いた東京オリンピック(五輪)、個々の競技には感動を覚えながら
も、振り返えるとき、国民の五輪熱が高まらないままに終わってしまったとの感、拭いきれません。因みに開会式に出席した菅首相の様子からは、その場は晴れがましい‘場’であった筈も、いささかの高揚感を感じさせるものは全くなかったのです。なぜか? 

8年前、東京開催が決まって以来、色々問題や不祥事が絶えず、そのつどの対応に迫られ、とかくの議論を呼ぶ処でした。国立競技場のデザイン変更、エンブレムの使用中止、招致をめぐる贈賄疑惑。大会組織委員会会長の女性蔑視発言。開会式まで1週間を切った時点で、楽曲担当の音楽家が学生時代のいじめ行為などで降板。更に土壇場になってショーの演出担当者が、過去にユダヤ人の大量虐殺をコントの題材にしたとして解任。これは人権上、重大な問題ですが、どのような基準で入選させたか、その経緯等の検証の必要性を残す処です。

これら不祥事は、云うまでもなく「多様性」尊重の精神に悖る処、問題の発覚とその後の対応にも照らし、多くは「またか」の感を深め、こうした事の積み重ねが国民の五輪熱を冷やしたものではと見る処です。勿論、‘多様性’は今後の経済社会の進化を律するキーワードと云え、英政府は今年の2月、これからの経済を考えていくうえでの指針として「Economics of Biodiversity」(生物多様性の経済学)なるレポートを公表する処です。

そこで今次論考では「東京五輪 2020」に照準を合わせ、五輪を巡る問題、課題等を、`東京五輪2020’ が残したメッセージとして、‘多様性’を切口に総括方レビューし、方々、オリンピックを主導するIOCの在り方についても同様、レビューし、併せて、持続可能な経済発展へのシナリオを、上記英政府レポートにも照らし、考察することとします。



第1章 ‘多様性’理念の東京五輪と菅政治の実像

1. 東京五輪開催までの8年と、菅政権のガバナンスの実態

(1)東京五輪招致の経緯と菅首相の役割
今次東京五輪は前述の通り、「多様性」の追求を理念として開催されました。さてこれがオリンピックの場でどのように体現化されていったかレビューするためにも、改めてオリンピック東京招致の経緯と都度、語られた理念の推移を見ておきたいと思います。

・大会招致の流れ
招致の流れを作ったのは、2011年の東日本大震災の後の都議会で、当時の石原東京都知事が「大震災から立ち直った日本の姿」を示す意義を表明したことに始まる処、その後、2012年12月に首相に就いた安倍信三氏がその流れを引き継ぎ、13年9月、アルゼンチン・ブエノスアイレスでのIOC総会で東京招致を勝ち取り、20年1月の施政方針では「まさに復興五輪だ」と叫ぶ処でした。が、これは新型コロナ感染が広がる直前までの話。

その直後の3月、コロナの世界的拡大でIOCに延期論が高まるなか、安倍氏は中止シナリオの回避を最優先して延期に傾き、当時のトランプ米大統領の支持を取り付け、その後のサミットでも東京五輪実現への合意も取り付け、3月24日、IOCバッハ会長と協議し、安倍氏は‘延期1年’を選択(2021年7月23日-8月23日)、今次の開催に至ったのです。

延期決定は、開催理念の変更を促す処でした。つまり、政府はそれまでの「復興五輪」の看板を下ろし、目指すは「人類がコロナに打ち勝った証し」としての五輪開催と、その趣旨を変え、最後には「安全・安心の大会を開く」ことが目標になったのです。 つまり感染拡大を抑え込んだうえで実現させるということでしたが、それは政府のコロナ対応が、国民の安全のためと云う事よりも、五輪開催の為にとの趣旨に変質した瞬間でした。
そして20年9月、安倍氏の後継となった菅氏は、この路線を踏襲し、今日に至る処です。

・菅首相の役割
尚、五輪が「緊急事態宣言」下で強行実施されたことで、菅総理には「コロナ感染拡大抑止への確実な対応」を図る事、同時に、五輪を「安全・安心な大会」とする事、そして「多様性の尊重」といった運動をも前進させていく、という重い役割を担うことになったのです。 が、コロナ感染拡大抑止への対応の曖昧さ、に加え、五輪運営の中核組織たる組織委員会の不祥事の連発は、いずれも菅政権のガバナンスの無さを映す処、国民の不信、不満を募らせ、自らも五輪への高揚感を覚える処ではなかったのではと推察する処です。

(注)今次五輪誘致への経過と当該理念の変遷
2011年、「大震災から立ち直った日本の姿」(石原東京都知事)
13年9月、「復興五輪と銘打った姿を世界に発信」(安倍首相、IOC総会)
(20年1月、安倍氏「復興五輪」表明、直後の3月、コロナ禍で開催1年延期決定)
20年10月、「人類がウイルスに打ち勝った証」として開催 (菅首相、所信演説)
21年4月、「世界の団結の象徴」(バイデン米大統領に説明)
21年7月、「困難に直面する今だからこそ団結」(IOC総会で菅首相演説)

(2)菅政権の「ガバナンス」欠如の実態

① 五輪組織委員会の行動原理
上述組織委員会を巡る不祥事の全ては、まさに菅政権の本質を晒す処、森喜朗氏が引き起こした組織委員会会長辞任劇に、その典型を見る処でした。それは ‘内輪の論理’で進められてきたことが引き起こした結果と云え、要は、同質性の強い運営体制、意思決定のプロセスの不透明さ等々、まさに‘五輪の理念’に悖る処、国民の五輪への高揚感の足をひっぱる処となったのです。
加えて、ショーデイレクターを務めていた小林賢太郎氏がユダヤ人の‘ホロコースト’ をコントで扱ったことが発覚、土壇場で解任された騒動も火に油を注ぐ処でした。つまりナチスが犯した人類への究極の罪は永久に消えず、協力者たちは戦後ずっと追及を受けてきたのです。この絶対悪に向き合う意識の欠落は断じて許される処ではない筈ですが、組織の長にあった森氏にはそうした意味など、理解の及ぶ処ではなかったのでしょう。

五輪開催直前でのこれら右往左往の顛末は、大会理念「多様性と調和」の実現は既に難しい状態にあったという事を示唆する処でした。そもそも、菅首相の下で組織された委員会でしたが、タテ割社会に育った日本人による、日本人のためのガバナンスを以って衝にあたる組織であったことからは、そもそも多様性の追求など、お呼びではなかったと云えそうです。
更に、コロナ下での五輪開催に、何のための五輪かと問う声には、「復興五輪」、「ウイルスに打ち勝った証」などのスロー ガンを、関係トップは口にはするものの、飲食・観光業が苦境にあえぐ中、開催の意義について人々が心から納得のできるような明快な発信は最後までなく、政府に対する国民の不信感は深まるばかりで、五輪熱などはひく処でした。

② コロナ対応の推移に映る菅政権の危機感の無さ
一方、前述、菅首相は五輪開催に当たってはコロナ感染の抑制を前提に臨むとしていましたが、五輪後の今も感染者の増加の勢いは収まる様子はなく、むしろ増加の一途にある処です。その都度、政府は緊急事態制限を発出し、国民には抑制協力を要請するものの、政権の事態に対する危機感は伝わらず、危機管理の無さを露呈するばかりで、繰り返し発出される緊急事態宣言こそは、そうした事態を象徴する処です。因みに、すでに解除となっていた第3回目の緊急事態宣言(2021年4月25日から5月11日までの17日間)に次いで、菅氏は2021年7月8日、4度目の緊急事態宣言(期間:7/12~8/22)の発出を決定したものの、収まらない感染拡大状況に鑑み、五輪開催中ながら7月30日、当該宣言の8月31日までの延長を再度決定。菅氏は、まさに異常なパンデミック下の五輪推進者と映る処です。

7月30日の記者会見では「ワクチン接種が更なる効果を発揮するまで今しばらくの間」と期限を切って対策を呼びかけるばかり。そして「今回の宣言が最後となるような覚悟を以って全力で対策を講じる」とし、「最後の宣言」にすると公言する処。(日経、2021/7/31)
が、今年1月からの2回目の宣言、4月からの3回目の宣言は、東京では新規感染者数がピークを打ってから解除まで1か月半~2か月半の期間を要していますが、過去に例のない感染悪化の途上にある今、あと1か月で宣言解除できるものかと、具体的対策が示されることのないままのこの半年間を見るに、多くは菅発言への信頼を失う結果となる処でした。

・問題は「危機感の共有」
政府のコロナ対策分科会の尾身会長他、専門家は、こうした政府の姿勢に強い警鐘を鳴らす一方、7月29日の参院内閣委員会では「今の最大の危機は、社会の中で危機感が共有されていないことだ」と訴えると同時に、高まるコロナ危機の現状に照らし、国は国民に対して具体的に丁寧な現状の説明をと迫る処でした。危機感を共有するためにはもはやは「五輪中止」宣言しかないのではと思料するばかりでしたが、コロナ蔓延下で、開かれる‘五輪’は誰のため、何のためとの国民の問いに、政府は最後まで語ることはなかったのです。

五輪競技を見るため自宅でのTV観戦が進む結果、人の流れは減ったと「安全・安心な大会」を掲げる政府、一方、感染拡大に危機感を強め、危機感の共有をと主張する医療関係の専門家たち、両者のギャップが深まる中、尾身会長は7月30日、その日予定されていた菅首相の記者会見に先立ち、「検査体制の整備と医療提供体制の強化、国民へのメセージ」の三つを要望したと伝えられる処でしたが、これまでもコロナ対応で国民にさまざまの「約束」をしながら結果として果たすことないままにやり過ごしてきた菅氏の言葉への信頼は無く、要は事態の重大性への認識の欠如と、国民の政府不信を招くばかり。因みに8月7~9日、実施のアンケト調査(注)では、内閣支持率はいわゆる危険水域、30%に迫る処、まさに菅内閣は逆風にあって、このまま ‘秋の政治日程 ’ に向かっていけるのか・・・です。

     (注)NHK:29%(前回7月:33%)、朝日:29% (同31%)、読売:35% (同
37%)JNN:32.6% (同48.1%) (日経2021/8/11)

2.「多様性と調和」を映す五輪競技の現場

上述、政府側の行動様式とは対照的に五輪競技の現場では、この「多様性」は広く体現される処でした。

(1)Diversity を映す開会式
7月23日の開会式では、全体の要所で次々に女性が登場、最後は「大阪なおみ選手」が聖火を点灯し、日本は女性や多様なルーツを持つ人達を応援する国だというイメージが繰り広げられていましたし、日本チームの旗手の一人として父親がアフリカ・ペナン出身のバスケット選手「八村塁選手」も起用され、また最終トーチ点火ランナーにテニスの大阪なおみ選手が起用されるなどで、上述の‘震災復興’でもない、‘パンデミック克服’でもない、まさに「ダイバーシテイ」の展開でした。

7月24日付The Economist はThe changing face of Japan と題して、この二人の登場は変貌する日本の今を語る処、従来、日本は人種的に純粋主義を矜持ともしてきた、ある種排他的ともされてきた、そうした日本人社会へのStigma, 汚名ともいえそうな神話は、もはや消滅していることの証左だと語る処です。勿論この二人は、夫々のフィールドで優秀な成績を残してきた結果が評価され、選ばれたわけで、以て、八村塁選手の旗手起用が多文化共生につながるかと云うと、結局、傑出した選手個人の成果のつまみ食いに終わりかねないのではと愚考する処です。尤も国籍だけでは分からない日本社会の多様化はかなり進んでいると思われるのです。
尚、男女平等、機会均等の点で女性競技者の参加は増え、その全参加者に占める比率は48.8%と報告される処、1964年の東京五輪ではその比率は13.2 %にすぎなかったとされていますがその数字の広がりは57年もの年月を要したということでしょうか。7月29日付日経は「五輪を女性の力伸ばす契機に」と題する社説で、女性選手の活躍を、運営や育成など他の分野でも徹底することの大切さを主張する処でしたが、要は、「多様性の活用」を強みとしていくことへの意識の転換を主張する処です。
また競技種目でも男女混成による競技も増え, 更にはこれまで考えられることもなかったBMX自転車競技など、いわゆる都市型競技が加わるなど、国民生活の変化に応える競技が加わるなど、競技の在り方さえも変えそうな変化が取り入れられてきたことでした。
(2)トランスジェンダーの競技参加
同時に、競技を巡る新たな問題として浮上したテーマの一つが、トランスジェンダーの競技参加問題でした。つまり、男性から女性に性別変更した選手の競技参加問題にどう向き合っていくかですが、今回、NZのトランスジェンダー選手が8月2日、女子重量挙げ87キロ超級競技に参加したことで、改めて俎上に乗ってきたというものでした。結果は敗退でしたが、競技前には‘彼女’の五輪出場について、競技の公平性か、人権かと、これまた多様性に照らした意見は多々伝えられる処でした。実はジェンダー問題については2015年、IOCガイドラインが出てはいますが、IOCは今次関心の高まりに照らし年中に、「トランスジェンダー選手に関する新たな枠組みを各国競技連盟(IF)に提示する」と約しましたが、多様性を受け入れる時代の流れにどう対応していくか、スポーツの在り方そのものが問われることになってきたと思料する次第です。


3.「東京五輪2020」を総括して思う事

東京五輪はコロナ感染の拡大収まることのないままに幕を下ろしました。8月14日の新規
感染者数は、全国で2万147人、2日連続の2万人超、東京では5,094人,各地で過去最高
を更新する状況です。(日経、8/15)まさに感染爆発です。
政府は8月17日、こうした現状を災害状況と認定、現行事態宣言の対象期間を更に9月12
日までの延長を決定しました。係る事態の招来は五輪開催前から医療関係者から指摘され
ていた処でしたが、今に至っても首相はじめ関係閣僚からも、五輪とは関係ないと強弁す
る処、菅政権には国民の健康、安全など全く眼中にないほどに、もはや不遜の内閣と映る処
です。

さて商業化路線の下、肥大化したオリンピックですが、コロナ禍の下で開催された事情もこれありで、その姿は一気に変わった様相ですが、今後も国際社会において担う役割は大きい筈です。とすれば持続可能な運営のためには何が必要か、まずは、オリンピック運営についての基本を見直し、組織改革を進める事が不可避と思料する処です。

(1)IOC、国内組織員会に、迫られる改革
IOC組織の見直しこそは、その象徴的テーマです。今次五輪の理念「ダイバーシテイ」に照らすとき、東京大学副学長の林香里教授も指摘するように、極めて相性の悪い組織と云わざるを得ません。IOCの会長は、初代からの約130年ものの間、バッハ現会長を含めて9名しかおらず、全員白人男性で、1人のアメリカ人を除いて全員ヨーロッパ出身者で固められてきたことに象徴されると云うのです。そして同教授は、NY TimesのJohn Branch記者の記事`Let the Games --- Be Gone ‘(NY Times 電子版、7月17日)に照らし、IOCと云うシステムは21世紀に漂流する19世紀の遺物であり、驕奢の上に成り立ち、地政学的に偏り、汚職や不正が蔓延する改革不能な組織だとも断じる処です。(朝日新聞Digital、7/29)
とりわけバッハ会長の東京での言動は、まさに改革は不可避と思わせる処です。

勿論、同様の趣旨からは、国内の組織委員会についても、今次の経験に照らし、「多様性」への対応を可能とする組織への改革も不可避と云うものです。つまりDiversityを掲げた「東京五輪2020」は結果として、IOCと云う組織のガバナンスの見直し、そして日本が内在させてきた問題の見直しをも迫る契機となったと、総括される処です。 五輪が終わった今,「その熱狂は消え、我に返ると、感染に溢れる日本があった」との想い、募るばかりです。

(2)菅首相への詰問 
8 月11日付朝日新聞、DIGITAL、掲載の社説「コロナ下の首相、菅氏に任せて大丈夫か」は、上述筆者批判と文脈を同じくする処、そこでその概要を以下に紹介し、本章の締めとしたいと思います。

「・・・首相は9月の就任当初からコロナ対策を最優先課題に挙げ、最初の所信表明では「爆発的な感染は絶対に防ぐと」誓った。だが、感染の波は断続的に訪れ、今年に入ってからは、宣言やまん延防止等重点措置がほぼずっと続いている。 未知のウイルスへの対応に、試行錯誤はやむを得ないとしても、これだけの経験を重ねてなお、迷走が続く根っこには、首相の政治手法や政権の体質があると見るべきだろう。まず、首相の根拠なき楽観論である。一昨日(9日)の記者会見でも、ワクチン普及の成果を強調するばかりで、それでも爆発的な感染拡大に至っている現状への危機感は伝わってこない。
・・・こうした傾向に拍車をかけるのが異論を受け付けない首相の姿勢だ。複数の閣僚や周辺が五輪の中止を進言したが、聞く耳を持たなかったという。首相が「裸の王様」となって独善的にふるまうなら、専門家を含む周知を集めた対策など生まれようがない。
・・・強制力に頼らず国民の自発的な協力に負う日本のコロナ対策では、政治指導者の発信は極めて重要な役割を持つ。五輪を開催しながら、国民に外出や外食を控えるよう求めることが、矛盾したメセージになるという自覚もないまま、自らの正当性ばかりをアッピールされても、聴く者を得心させることはでいない。コロナ禍で」「最大の危機」を乗り切り、国民の安全・安心を取り戻せるか。首相がこれまでの対応を根本的に改めなければ、信頼回復はおぼつかない」



第2章 コロナ後の経済社会とDiversity 

1. ポストコロナで求められる経済のかたち

(1) Sustainable development のカギはDiversityの実践
「五輪」が掲げた理念「Diversity」が意味することは、前述の通り「違いを認めあい、受け入れる」ことで新たな発展が期待できるとする処、従ってdiversityを基軸とした政策こそはポストコロナと云う新しい時代への指針となる処です。つまり「持続可能な開発」を図るためにはdiversityを中核概念とした、創造的対応の実践にありとされる処です。

そうした思考様式に応える報告書が今年2月2日、英政府(財務省)より公表されました。ケンブリッジ大学名誉教授 パーサ・ダスグブタ氏(Sir Partha Dasgupta)率いるチーム(注)が纏めた報告書、「Dasgupta Review:Economics of Biodiversity」です。これは「生物の多様性と経済」の関係性を包括的に分析したレポート(下記(2)項)で、今後の経済政策を考えていくうえでの指針と、注目される処です。

    (注)ダスグプタ委員会:英財務省支援の下、2019年に発足。大学教授、国際機関、
NGOの多数が集結。レポート作成には世銀,IDB,世界経済フォーラム(WEF),OECD,
イングランド銀行、等々が協力。尚、1992年の国連 Earth Summitでは、地球上に
生息するは3000万種の生物の保全を目指す「生物多様性条約」が合意されています。

(2)Economics of Biodiversity (生物多様性の経済学)
当該報告書は、具体的には地球環境問題への対応、とりわけ脱炭素への取り組みへの提言ですが、その取り組みの在り方、思考様式に変化を与えるものとされる処です。 つまり、経済学者は自然が経済活動で果たす役割を見過ごし、環境破壊が成長や人間の生活に如何にリスクをもたらしているかを過少評価していると指摘するのですが、以て、今後の英政府および世界にとっての生物多様性と経済に関する羅針盤となるとされています。

同レポートでは、人間社会の需要は、持続可能な自然アセットの供給を超えるべきではなく、その為に自然保護区面積の拡大、自然を軸としたソリューションへの投資の拡大、消費や生産によるダメージの防止等を通じて、自然アセットの供給量そのものも増やしていく必要があること、又 会計制度の中に、自然資本の考え方を導入するなどの大きな測定手法の変化を進め、特に金融と教育の変化の必要性をも訴えるのです。 
当該研究は環境保護団体が長年行ってきた「人類は自然資本を管理できておらず、人類の自然に対する需要は、今や自然の供給レベルを超えている」との主張を裏付けるものとされ、英国政府は今後、このレビュー内容に基づき、政策や法規の検討を進めると言うのです。

本報告を受けたB.ジョンソン首相は、「ダスグプタ調査により、自然の保護と改善のためには強い意志だけでは足りないことが明らかになった。お互い連携し、調整された行動が必要だ。英国はCOP26の共同主催者として、更に(6月の)G7議長国として、世界的議題の第一に自然環境があることを確認した。まずは昨秋提示したTen-Points Plan (「グリーン産業革命」のための10か条)(注)を進め、英国のグリーンな復興をこれまで以上に行うことで例を示し、リードしていく」とする処です。

   (注)英国「グリーン産業革命」(2020/11/18公表):気候中立目標の達成に向け、電気自動車や洋上風力発電、クリーン水素等10項目の計画に総額120億ポンドを投じる計画を公表。その一環として2030年までにデイーゼル車の新車販売の禁止方針を
打ち出す処、「グリーン産業革命」により最大25万人の雇用創出を見込む処。ジョン
ソン首相は「10項目の計画により、50年までにCO2排出量を実質ゼロとする目標へ
向かうことで、何十万のグリーン雇用を創出・支援・保護できる」と云う。尚, 
2021/7/14、EUは温暖化ガス排出ゼロへの包括案を公表。その中で2035年には、
ガソリン車の販売を禁止する方針と。要は「化石燃料に依存する経済は限界に達
した」との認識を伝える処です。(日経 2021/7/15)

2.自然を経済的視点から捉え、行動すること

(1)「自然資本」という発想
ダスグプタ・レポートを受け、The Economist(2021/2/6)は、「The natural question - A new report puts the eco into economics」と題した同誌コラムで、自然の経済への貢献度とはどのようなものか?としながら、自然も生産要素に含めることで独自の生産関数を提示することで、成長に対する自然の貢献度を説明しうるとし、従って環境を大局的な視点でとらえ「自然資本」の蓄積とみなし、人間がその自然の「調節」と「その維持サービス」を利用していると見立て、要は、GDP重視では持続不可能で、自然資本を経済成長の指標にしていくことでと、それこそが環境政策の本質を見出す処ではと指摘する処です。

つまり、空気を浄化し、廃棄物を分解して養分に変え、世界の気温を生存に適した水準に保つといった環境サイクルの働きを人間が利用しているわけで、この新しい生産関数の発想を取り入れれば、成長に対する自然の貢献度を正しく理解できるようになると、示唆するのです。かくして自然資本を加味すれば、現在の経済成長がどこまで持続可能かも分析でき、経済学者が経済への自然の貢献度を把握することが環境問題を考える上で、不可欠と指摘するのです。
自然を経済学的視点から捉え直す必要があるというのですが、まさにsubtitleにある‘ A new report puts the eco into economics’ 、つまり自然を経済要素として、それを従来型経済学に組み込み、以って環境分析のより合理的対応が可能になると主張する処です。要は、修復不可能なまでに環境に打撃を与えている状況を食い止めていく政治的な意識を築く上で、経済学的視点を超えた自然の価値を訴えていくことの必要性を示唆する処です。
 
(2)地球規模の環境対応、二つのテーマ 
・多様性の確保:上述、「ダスグプタ・レビュー」を映すごとくに、いま生物多様性は、
気候変動問題(以下)と並ぶ地球規模の環境課題となりつつある処、金融機関などの投資家の運用基準にも採用され、企業行動に影響しだす処です。
その生物多様性の維持については、2010年、名古屋市で開かれた会合で、各国は2020年までに陸・海の10~17%を保全・保護する「愛知目標」を纏めていますが、今年、10月、中国・昆明で条約国会議を開き、30年までの新しい目標を再討議することになっています。(日経8/8) 尚、生物多様性の維持を徹底する手段としては、自然保護区への指定があり、日本は陸地の20%、海洋の13%を保護区としていますが、近時の安全保障問題 (注) がどのようにかかわってくるものか、注目する処です。

(注)「重要土地利用規制法」:今年の通常国会では自衛隊拠点や原発施設の周辺、国境
離島など土地利用を規制する当該法律が成立。以って、経済活動と安保が結び付く「経
済安保」の課題と位置づけ、600か所を候補に監視の強化、を始めている。(日経8/12)

・気候変動への取り組み:8月9日、国連IPCC(気候変動に関する政府間パネル)は、産業革命前と比べた世界の気温上昇が2021~40に1.5度に達するとの予測を公表しました。これは2018年時点での想定より10年ほど早いとされる処、同報告書では、人間活動の温暖化への影響は「疑う余地がない」と断定。自然災害を増やす温暖化を抑えるにはCO2の排出を目標の2050年、実質ゼロにする必要があると強調する処です。(日経、8/10)
日本の削減目標は、30年度に13度比46% 減。 温暖化の抑制に力を注ぐと同時に、気温上昇に備えた現実的な対策が求められる処、実際は具体策に乏しいままにあるのです。

国連のグテレス事務総長はIPCCの報告を受けた同日、地球温暖化を抑えるために「即時に努力を強め、最も野心的な行動をとるほかない」と強調。その報告は「人類にとっての警報だ」と指摘する処です。気候変動リスクが切迫する中、国も企業にも、その対策はますます重い責任になってきたということですが、この際は、旧来の発想を超えた取り組み、そして「多様性」をも配慮した取り組みが求められていくことを実感させられる処です。



       おわりに 女子サッカー「なでしこ」の抗議行動

7 月24日、札幌ドームで行われた「なでしこ ジャパン」と「英女子チーム」とのサッカー戦で、そのキックオフ直前、英チームの選手が片ひざをつくのと同時に、日本選手も片ひざをついたのです。それは、2016年米フットボール(NFL)選手が国家斉唱時、起立せずに片ひざをついて黒人差別に抗議の意思を表した行為に倣うものでしたが、日本のスポーツで選手が自分の意思で人種差別に抗議を表明した瞬間でした。その映像を見た瞬間、得も言えぬ、感慨すら覚える処でした。

オリンピック憲章第50条ではオリンピックの競技会場などで政治、宗教、人種に関する宣伝活動を禁じる処、昨年の6月頃から、米国他の国からIOCに対して50条ルールの撤廃要求があり、今年7月に入って当該ルールの緩和で、片ひざをつくことが容認されることになった処、英国チームからの同調要請を受けた「なでしこ」は、英国チームのactionへのrespect と云う意味を含め、「なでしこ」全員で24日には、英国チームと共に片ひざをついての抗議行為に臨んだというものでした。 後日、野間文芸賞作家の星野智幸氏が朝日新聞 (Digital、7/30)に投稿したエッセイ「欺瞞に満ちた東京五輪 ―フアンだからこそ考える参加選手の責任」で、その行為は極めて重要な行為と評価しながらも、「その姿は、コロナ禍の五輪開催の正当化に利用されてしまう」ことへの懸念を伝えていたのです。

同氏によれば、人種差別をスルーしたら、サッカーの現場が差別の応酬になって、サッカーが成り立たなくなるからで、自分たちが人生をかけるサッカーを守るためには、人種差別への反対を人任せにするのではなく、選手が個人として意思表示することがカギとなるとし、彼らは当該行為に臨んだと、高く評価する処、ただし五輪と云う舞台づくりを根本から批判することは彼らには難しい。結局は排除されることになるからで、そこで星野氏は次のように云うのです。

「現役中に難しいなら、せめて引退してからでも五輪の在り方を変えるよう努めてほしい。多大な犠牲と不公正の上で成り立っている五輪に参加した選手達には、それを変える責任がある。この欺瞞に満ちた五輪を支えてきた運営の責任者達は、かつて栄光を誇った実績ある五輪アスリートたちばかりなのだ」と、「なでしこ」の行為を介して、現在の国内組織委員会の改革を主張するのでした。先に国内組織委員会の改革然るべしと指摘しましたが、スポーツ選手とプロテストの権利をめぐる議論は、今も世界中で続く処です。

世界の進歩を律するキーワードは「多様性」と確認しながら、再び考えさせられる処です。
以上(2021/8/25)
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